作詞

令和のJ-POPは「歌声中心」?Ado「唱」に見る歌作りの変遷

以前、下記の記事を目にしました。2023年12月11日、石黒隆之さんによる日刊SPA!の記事です。

Adoの歌唱力に「うますぎる」相次ぐ絶賛の声も…最近の日本のヒット曲が“脆い”と感じる理由」(日刊SPA!)

「Adoの歌はスゴいと言うけれど、肝心の曲について、いい曲なのか悪い曲なのか。美しいのか、心地いいのか、そこへの言及がほとんどないのですね。」

「本来、曲>歌であるべき主従関係が、Adoにおいては逆転してしまう。つまり、曲がボーカルの踏み台になっているわけです。」

という点を踏まえ、現代のヒット曲がどんどん難しくなっていっていることを危惧している、という内容でした。なるほど、と記事を読みつつ、少し別の観点から「最近の難解なヒット曲」についてお話してみようと思います。

「歌声に合わせて曲や歌詞がつけられる」ことが令和のスタンダードに?

Adoさんの歌を称賛する声は多く、その実力も確かなものだと思います。私が記事に共感したのは、その歌声に対して曲が作られているという側面。

昭和時代、たとえば演歌などは先に歌詞があってそこに曲をつける、いわゆる「詞先」のスタイルが主流でした。つまり、歌詞に合わせて曲を書く、ということですね。そして、平成のJPOPでは9割以上が曲先です。先に曲があって、それに合わせて歌詞を書く。今でもそれが主流です。ただ、もしかすると、その前に「歌声」がある、つまり、歌声に合わせて曲や歌詞がつけられる、というのが令和に入ってからのひとつのスタンダードになりつつあるのではないかと思ったのです。

歌唱難易度の高いYOASOBI「アイドル」Ado「唱」

最近では、ボカロPからメジャーシーンに進む作家も増えています。また、「歌い手」文化も根強いものがありますね。ボカロ(ボーカロイド)だからこそ歌える難解な曲としてはじまった文化がJPOPシーンでも受け入れられているという側面もあるでしょう。また、大ヒットしたYOASOBI「アイドル」も、幾田りら(ikura)さんの歌唱力だから歌いこなせる、いわば歌唱難易度の高い曲。それが抜群の歌唱力で歌われることが、観客の気持ちよさにつながっています。これはAdoさん「唱」とも通じる部分です。

歌い手、曲、歌詞すべてが歌の要素

演歌では、「こぶし」や「唸り」など、歌手の歌い方にも焦点が当てられてきました。令和の「歌声中心」文化も、それに通じるものがあるようにも思います。歌い手、曲、歌詞はどれも歌に不可欠な要素。3つそれぞれが、時代によって扱われ方、重視のされ方、受け入れ方などが変化していくのですね。私としては、これからの音楽を危惧するというよりも、どのように変化していくのかが非常に興味深いところです。

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